名古屋高等裁判所 昭和28年(う)59号 判決
凡そ業務上失火罪は失火罪の、又業務上過失致死傷の罪は過失致死傷の罪の、それぞれ一類型を為すものであつて、いずれも業務上必要な注意を怠つたと云う条件が刑罰加重の要件を成しているのである。先ず業務上失火罪について考察するに、この罪は業務上必要な注意を怠ることによつて火を失し刑法第百十六条所定の物を焼燬することによつて成立する犯罪である。即ちこの罪の構成要件は火を失する行為があること、之によつて同条所定の物を焼燬する現象が発生したこと、火を失することが業務上必要な注意を欠いたものであること、であつて火を失する行為があることが最も基本的な絶対的構成要件である。而して火を失する行為とは物の燃焼作用を惹起せしめて之を焼燬する行為があり、その行為並びに物の焼燬の結果につき行為者にその認識がなく、その認識を欠くことがその者の注意義務に違反すること、約言すれば過失により火を放つ行為に外ならない。もとより物を焼燬する行為は作為たると不作為たるとを問わないものと解する。何となれば過失犯にも不作為による作為犯の成立を認むべきものと解すべきだからである。従つて例えば不注意により火気を有するタバコの吸殻等のものを抛擲するが如き作為行為により物を焼燬した場合の如きは本罪を構成するは勿論であるが他の原因による既発の火気を認め乍ら消火を為すべき法律上の義務ある者が過失によりその義務を怠り消火せず又は延焼防止の措置を講ぜずその儘放置し、為に焼燬の結果を生ぜしめた場合の如き不作為も又火を失した行為ありとして失火罪の成立を認むべく、その注意義務が業務上の義務にかゝわるときは業務上失火罪を構成するものと解すべきである。業務上過失致死傷の罪についても同様作為たると不作為たるとを問わず、人の身体に不正の攻撃を加え致死傷の結果を生ぜしめる行為があり、その行為及び結果につき行為者に認識がなく、その認識を欠くことがその者の注意義務に違反する場合に過失致死傷の罪が成立し、その注意義務が業務上の注意義務である場合に業務上過失致死傷の罪が成立し不作為による場合は法律上の義務に違反する不作為による作為犯の成立を認め得べき場合においてのみ本罪を構成するものと解すべきである。従つて以上の構成要件の一を欠けば業務上失火罪も、業務上過失致死傷の罪も成立しないものと謂わなければならない。
本件公訴事実の要旨は原判決摘示の通りであるからこゝに之を引用するが、原審が取調べた証拠の内容を仔細に検討し、更に当審における証拠調の結果を参酌すれば本件中日スタヂアム株式会社並びにその競技場建設の経緯、その構造、本件火災発生前後の状況、火災の程度、人の致死傷の結果を生じた顛末は原判決理由説明中に摘示する通りであることが明白であつて之を要するに本件の火災は原判示の如く野球競技の最中観客中の何人かゞ火気を有するタバコの吸殻又はマッチの余燼等の何等か火気を有する物を、その不注意により観覧席に抛棄し、それが木造観覧席の腐朽せる床板の間隙に落下し漸次床板に引火して焼燬作用を起し又は間隙から下へ落下し、落下附近に堆積していた紙屑、塵芥類等の物に引火しその火勢が観覧席の床板の下部に引火して燃え拡がり、(斯の如き当初の焼燬作用の発生原因は単に推察し得る程度である)相当火勢が拡大した頃偶々焔が板張りの間隙から観客の充満する外上方の座席に向つて噴出した為試合の妙技に熱中していたその附近の観客が総立となり、消火の措置を施す暇もなく、折柄の強風に火勢は見る見る拡大し、之を目撃した多数の観衆がこの不測の事態に直面して驚愕の余り周章狼狽して我先に避難せんとし、前面グランドに逃避しようとし雪崩を打つて一時にグランドに向つて殺倒し大混乱に陥り、ひしめき合う人と人との圧力により又はグランド側面に設置されていた原判示の如き金網を乗り超えてグランドに飛下りる者、転倒する者続出し、順次その後続の者の下敷となつたため同判示の如き火災及び多数の致死傷の結果を惹起するに至つたものであることを推認するに難くない、仍つてかゝる結果に対し、被告人に前叙の如き業務上失火罪及び業務上過失致死傷の罪の構成要件たる如何なる行為があつたかを審究する。
所謂失火罪は放火罪と同様に刑法に規定する物体を焼燬する行為であるからその当初焼燬の現象が発生したときに失火罪は成立しその後その焼燬作用が拡大しても失火罪とし仮りに責任を問われる場合にその責任の大小軽重或は情状に影響を与えるだけであつて鎮火妨害罪の責任を問うことがある場合は格別焼燬作用が拡大したか否かは失火罪の責任があるかないかを決定することには関係ないもので所謂失火罪の責任を問うか否かは当初の焼燬作用に対し責任を問うべきか否かを考察すべきものと考える、この観点から本件について考察を加えるのであるが本件公訴事実に表われている訴因を見るに最初の火災発生の情況として云々、前記火災予防上の施設並に物的措置に対する注意義務の欠缺と相俟つた業務上の過失に因り同日(昭和二十六年八月十九日)午後四時五十分頃同スタヂアム指定席「へ」号百八十番座席附近に小火を生じた際その発見が遅れ座席裏三坪を燃焼するに至つて漸く発見したのみならず発見後に於ても適切な消火手段を講じ得なかつたため遂に(中略)同スタヂアム内野観覧席及び(中略)同スタヂアム事務所(中略)を全焼云々と記載し相前後する記載字句と照し合せて考慮するも座席附近に小火を生じた際云々とあるは本件建物の一部である座席に対し焼燬作用が発生しておるというのか又は他の物件が火焔を発生しておるが座席に対する焼燬作用が発生していない趣旨であるのか或は又座席に於ける焼燬作用が発生しておるのでこの段階の焼燬作用から失火罪としての責任を問うという趣旨であるのか更に又その発見が遅れたため座席裏約三坪を燃焼するに至つて漸く発見したのみならず発見後に於ても適切な消火手段を講じなかつたため遂に云々とあつて、所謂焼燬作用の拡大したことに対し過失の責任ありとして之を問うの趣旨であるのか、訴因の表現は法律上の観念として明確でないのであるが然し本件訴因は鎮火妨害罪でないことは明かであり訴因の趣旨は所謂当初の焼燬作用に於てその責任の成立を問うており本件火災の結果が重大であるため問わるべき責任は重且大であるという趣旨に解せられるのでこの趣旨に於て判断を加える。而して本件火災の当初の焼燬作用は前叙原判決認定の如く観覧席座席に対し焼燬作用が発生したものと推認されないこともないのでこの当初の焼燬即ち火を失したことに被告人に責任ありや否やを検討する。尚又訴因に於て指摘する本件業務上失火の業務とは被告人に火熱を取扱うことを業としておるとしこの業務上の注意義務を怠つたことのみに対し責任を問う趣旨か将亦前掲管理部長としての職責たる業務を怠つた為焼燬作用又はこれが拡大作用を惹起するに至つたという趣旨なのか訴因の表現上必ずしも明確であるとは云い難いが本件控訴趣意をも十分考慮に入れ訴因は右両者の注意義務を被告人が併有するに在るものとして之に対する義務違背を追及するものと解し判断を進める。
先づ被告人が前記の如き火災及び致死傷の結果を生ぜしめた何等かの過失による作為を為した事実があるかと云ふと被告人には毫も左様な作為を為した事実がないことは前掲証拠によつて明かである。次に被告人にその責に帰すべき過失にもとづく不作為による作為即ち作為義務違反の不作為があり之によつて本件火災及び致死傷の結果を発生せしめ、それが被告人の業務上の不注意に由来するものであるか何うかを按ずるに、抑々不作為による不作為犯の成立を認めるのには、一定の作為を為すべき法律上の義務ある者がその義務に違反して期待された作為を為さず因つて刑罰法規が形式上作為犯として規定した犯罪の構成要件を実現する場合でなければならない。而してその法律上の義務ある場合は(一)法令上形式的に一定の作為義務を命ぜられている場合(二)当事者間の法律行為により作為義務がある場合(三)社会生活上或一定の作為が期待せられその作為を為さないことが最も合理的な国民感情に照し信義誠実の原則に反し著しく公序良俗に反するものと認められる場合、に限定さるべきであつてかゝる法律上の義務に違反し期待された作為を為さず、因つて犯罪の結果を生ぜしめそれが過失にもとづく場合においてのみ過失による不作為犯の成立を肯定すべきである。
而して本件の場合は右(二)に掲げた当事者間の契約による作為義務の存否を云為すべき事案ではないから先づ(一)の法令上形式的に定められた作為義務の存否につき考えると消防法並びに名古屋市火災予防条例の規定を通覧すると本件建造物は同法に規定する防火並びに消火対象物であり、同条例に規定する公衆の集合する公衆集合所であることは明かであるからその管理人たる被告人は同建造物の防火責任者を定め、防火計劃を立て、その訓練を行わなければならないし(消防法第八条)又市町村条例の定めるところにより消火器及び消防の用に供する機械器具及び消防用水並びに避難器具を設備しなければならないし(同法第二十四条)更に又同建造物の構造、施設に応ずる原判示の如き種類程度の防火器具用水等を常備しなければならず(同条例第二十四条第二十五条及び別表)その他同条例の規定する予防設備、消防設備並びに避難設備を設けなければならないことが明かである。然るに前掲証拠を綜合すれば被告人の前任者たる高木鎮夫の時代においては警備課長たる同人を防火責任者と定め所轄中川消防署長に対しその旨届出を為していたが昭和二十六年一月初頃同人がその地位を去り被告人が管理部長として同建物の管理を為すに至つた後は被告人自ら事実上の防火責任者の地位にあり乍ら自己又は他の者を防火責任者と定めず、従つて又その旨の届出も為さず、所轄中川消防署係員から数次に亘る防火計劃の樹立並びにその届出方の督促を受け乍ら同建造物の構造に適応する適切な防火計劃の立案を為さず、従つてその届出も為さなかつたこと、格別防火訓練を為さなかつたこと、条例に規定する程度の防火器具、防火用水、避難器具等を備付けなかつたことは原判決説明の通り之を認むるに足る、これ等の事実は同法及び同条例において防火並びに消火対象物の所有者、管理者、占有者に叙上の如き作為を命じた規定であるのに事実上同建造物の管理者たる被告人が之を為さなかつたことは明かに同法令の規定する作為命令に違反する行為であつてこの点において被告人には同法令上の作為義務違反の行為があつたものと云うことが出来る。併し乍らこの作為義務が不作為による失火罪の構成要件たる法律上の義務であるかどうかを考えるに同法の罰則を見ると消防法の他の法条に違反する行為については同法に罰則の規定を設けておるのに前記の如き同法第八条第二十四条並に同条例違反の行為については罰則の規程がないことが明白であるから同法及び同条例はその立法目的に従い火災の発生を未然に防止し且発生した火災による被害を軽減する為、防火並びに消火対象物の管理者等に対し前叙の如き作為を命じてはいるが、この作為命令に違反したからと云つて直ちに刑罰を科する程の強力な作為義務を命じたものではないことを窺知するに足る(尤も立法上この措置の当否は別である)従つて被告人に前記の如き同法令上の作為義務に違反した不作為があつたことは明かであつても之に対し同法による刑罰制裁さえ科せられておらず況んやこの不作為を以つて刑法上の不作為による失火罪の構成要件たる法律上の義務に違反した不作為と認めることは出来ない。何となれば社会通念上右の如き不作為が一般的に直ちに原判示の如き当初の座席の焼燬作用を生ぜしめる原因を与えたものと考えることは出来ず従つて之が為火を失する行為即ち過失により火を放つ行為更に換言すれば過失により法律上の義務に違反した不作為により原判示の如き火災の結果を生ぜしめたものとは到底認め得られないからである。
又右の如き不作為その他訴因に指摘するが如き被告人の不作為が著しく公序良俗に反し、刑事責任を科するに値すべき違法性を有し従つてこれ等の作為義務を失火罪の要件たる法律上の義務と解することが出来るかどうかに付考察するに前掲各証拠によれば被告人は同会社の管理部長として事実上同建物を管理していたのに会社経営上の資金関係にもとずく理由によるとは云え前説明の如き法令の要請する防火、消火並びに避難に関する十分な施設を為さなかつたのみならず同建物の建設、維持、修理、防火等に関する行政上の監督官庁から法令上の使用禁止又は制限等の強行措置を執られなかつたのに甘んじ木造建造物たる同建物が日夜雨露に曝され漸次腐朽の度を増し、火災、その他の災害防止に支障を来す条件が漸次増加しつゝあることを知り乍ら応急の暫定的修理補修を為すに止まり火災その他の災害防止の為根本的に万全の修理補修を為すの措置を講じなかつたこと、火災を未然に発見防止する為必要にして十分なる警備員の配置並びにその訓練について万全の方途を講じた形跡が認められないこと、日常観覧席の裏側に観客が放置する紙屑その他の塵芥類が堆積していたと認められるのにその儘放置し、絶えずその清掃に十全の努力を払つたとは認められないこと、数年来試合毎に相当多回数に亘り小火が発生し本件火災の当日も既に十一回に亘る小火が発生したのにその都度大事に至らず小火程度で鎮火したのに甘んじ、観客に対し喫煙制限、タバコの残火処理その他火災防止に関する強力にして適切且有効なる手段を講じたとは認められない事実を肯認するに難くない、これ等の被告人の不作為が生活経験に照し著しく公序良俗に反し信義誠実の原則に悖るものと認むべきかどうかと云うに、これ等の不作為は道義上その責任を追及されるかどうかは別として未だ以つて刑法上失火罪の責任を科すべき高度の違法性を有するものとは解せられない、何となれば同建造物は原判決認定の如く、兎も角建築制限規則その他法令の規定に従い適法に所轄行政官庁の許可を得て建築され、多少許可条件に違反する施設の儘放置した点はあつたにしても監督官庁から使用禁止又は制限等の強行措置を執られたこともないのに安易感を覚え、かてゝ加えて経営難等の理由により、原判決の如き重大なる結果を惹起するが如きことあるを夢想だもせず野球の競技を継続していたものであつて、監督官庁も亦もとより斯かる不測の重大なる結果を惹起することありとは思惟せず法令の認めた権限を活用して使用禁止又はその制限等の強行措置を講ずる必要を認めなかつたであろうし、火災当日入場していた多数の観客も同様前記の如き結果の発生を予見せず全く不測の事態が突発するに及んで周章狼狽し、冷静にして沈着なる思慮を払うの余地なく自己の行動に関する判断を誤り為に死傷の結果を増大せしめたものと認めざるを得ない、この場合前説明の如き被告人の不作為がなく、又監督官庁の使用禁止又は制限等の措置が講ぜられていたとすれば或観客の現実の失火行為があつたとしても原判示の如き火災は起らなかつたかも知れず、又之に基因する観客の狼狽による大混乱の事実がなかつたとすれば原判示の如き多数の致死傷者を出さなかつたかも知れない。この点から考えれば以上の事実は凡て程度の差こそあれ本件火災換言すれば他人の過失に因る火を失した物理上と法律上の現象並びに致死傷の結果に対し、前後して一の条件をなしているのと云うことは出来ようが、これ等の行為が刑事責任の帰責事由としての原因を与えた行為とは認め難く、且つそれ程の違法性を有する行為とも認められない。従つて上来説明の如き被告人の作為義務違反による不作為はそれ自体として社会生活上の経験法則に照し著しく公序良俗に反し、刑事責任を科する程高度な違法性を有するものと評価することは出来ないから被告人の前記の如き不作為は道義上の義務違反の行為であると認めることは出来ても、刑事責任の立場から見て不作為犯の成立要件たる法律上の義務違反の行為であるとは認め難い。
右の如く被告人に本件失火につき刑事責任を科すべきではないと認めるから業務上失火罪における業務の意義に関し多く論ずる必要を認めないが、前説明の通り本件訴因は被告人に業務上失火の責任がある旨強調しているので更に歩を進めてこの点につき一応の考察を試みるに、凡そ刑法上所謂業務とはその者の社会上の地位において同種の行為を継続して行う事務を指称するものと解すべきである。従つて業務上失火罪における業務は、その者の社会生活上の地位において火気を取扱う事務を継続して行うことがその業務の内容をなしている場合に限られるものと解すべきである。而して前記認定の如き管理部長としての被告人の業務の内容は極めて複雑であり、同建物の維持、保管、修理、危険防止、清掃等一切の事項に亘るものと認むべきであり、而も被告人は事実上防火責任者の地位にあつたものと認められるが火災防止の責任と火気の取扱を業とするとはその観念を異にするものであるから被告人には業務上失火罪に謂う業務を有しておつたものとは謂い難い。従つて被告人が本件火災発生の事実を知る以前において被告人に業務上過失にもとづき法律上の義務に違反した不作為による作為により業務上失火罪の構成要件たる火を失する行為に対し原因を与えたものと認むべき根拠はない。
次に火災発生後における被告人の責任について考えるに前掲証拠によれば原判示火災は同判示日時頃同判示の位置から出火し、その附近観客によつて発見されたが、既発の火勢の大さと折柄の強風とに禍され附近観客の手による消火は勿論、臨場中の消防署員並びに通報を受けて急遽出動した消防署員の手によつても到底迅速に消火するの方途なく瞬時にして燃え拡がり全く手の下しようがなかつたことを認めるに難くない、斯かる状態の下において被告人に火災を発見し乍ら過失によりその消火並びに延焼を防止すべき義務を怠つたと云う不作為による刑事責任を科することは出来ないことは既に説示している通りであり本件訴因も亦斯かる責任を追及しているものとは認められない。
以上いづれの観点からしても被告人に業務上の過失にもとづく不作為により原判示の如き火災を生ぜしめた結果につき業務上失火罪の責任を科すべき法律上の根拠はなく業務上過失致死傷の結果は、右火災に基因する結果であることが明白であるから既に業務上失火の点についてその責任を認めることが出来ない以上業務上過失致死傷の責任を負わしむる理由はなくこの点については多く論ずる必要を認めない。
只検察官は当審において訴因を追加訂正し主として火災発生後における観客の避難誘導につき被告人においてその措置を誤つた点につき被告人に業務上過失致死傷の責任があると主張するが原判示の如き重大なる結果を発生するであろうことは通常人の如何に健全なる常識を以つてしても到底之を未然に予見し得られなかつたことゝ考えられる。これをこそ不測の結果と云うことが出来よう、かゝる予見が期待し得られることであればかゝる災害は未然に防止し得ることは容易に首肯し得られるからである。尤もかゝる場合と雖建造物の管理者たる被告人としては飽迄善良なる管理者の注意を以つて最も冷静沈着に且敏速適確に推移する事態を正確に判断し、迅速適切に災害の拡大を防止する為相応の措置を講ずべきであることは勿論であるが、証拠によつて認め得るが如き火災発生後の火勢進展の速度並びに観衆の混乱状態に鑑み周章狼狽して他を顧みる余裕もなく我先に避難しようとする多数の観客に対し原判示の如き結果の発生を防止するに有効適切なる誘導を為すことは社会生活上の経験に照し殆んど不可能に近いものと認むべきではなかろうか。かゝる場合普通に期待される方法としては出火の事実を確知するや速かに警備員を指揮して直ちに非常口を開放し、拡声器等により適切なる避難方法を指示する等の措置であろうか、本件の場合この種の措置を講じようとしても或は火災の為既に拡声器はその機能を冒されていたかも知れないし、又然らずとし、拡声器を利用しその他警備員等をして誘導を試みたとしても狼狽せる観衆の静止誘導に果して有効な効果を挙げ得たかどうか疑いなきを得ない。更に如何に冷静にして細心周到の注意を払い有効なる誘導を試みようとしても、刻々の火勢の変化、風の作用その他の条件により千変万化する火勢の動きを精密に把握し之を狼狽して右往左往する多数の観衆に周知徹底せしめてその行動を支配することは到底人為を以つてよく之を為し得べきところでないと解するのが吾人の常識に合致するものと謂うべきである。従つて訂正追加にかゝる訴因についても既に他人の作為又は不作為に因る焼燬作用の発生している以上被告人に刑事上の責任を科すべき合理的な事由を発見することは出来ない。
以上説明の次第であつて被告人に本件訴因の如き失火の責任を科すべきものではないと認める。原判決は被告人に重過失の責任はあるが本件の訴因を以つてしては処断出来ないとの趣旨の説明を加えているが、本件の場合その過失が業務上の過失であるが、重過失であるかはその基本的事実に影響はなく公訴事実の同一性を欠くものではないと解するが、当裁判所は過失の種類軽重に関係なく被告人に過失にもとづく不作為による作為犯の責任を科することは出来ないと認めるのでこの点に関して論及する必要を認めない。
只本件においてつくづく考えられることは通常の国民感情に照し、本件の如き重大なる結果を生じ、建物の管理者にも相当の落度があつたと認められる場合その管理者に何等刑事上の責任がないと云うことは一見如何にも不合理であるかの如く考えられ易いことである。もとよりかゝる災害の再発を防止する為この種建造物の管理者は法令の命ずるところを厳守するは勿論絶えずその良識に訴え建物の構造に適応する災害防止の施設を為し、十分なる警備員を備え、その訓練を全うすべきであり、監督官庁も亦法令に認められた権限を活用し臨機適切なる監督権を発動してその指導監督を厳にし、一般人も亦その高度なる道義心に訴えて未然に災害を防止することに協力すべきことを只管期待する次第であるが、只結果が極めて重大であつたと云う一事を以つて刑事責任の帰責事由と為すことが出来ないことは罪刑法定主義の立場から考えて自明の理である、発生した結果が軽微であるか、重大であるかは火災発生に原因を与えたものとして責任を負荷された場合量刑上の資料となることはあつても犯罪の成否即ち犯人の注意義務過失責任を免脱させるか否かを左右する事実ではない。若し本件が検察官主張の如く業務上失火罪を構成するものとすれば起訴状に指摘する本件火災前に生じた相当回数に上る小火もそれが独立燃焼の域に達していたと認められる場合に限り凡て同罪を構成する筈である、本件の訴因は結果の重大さと本件火災に対し直接の原因を与えた失火の行為者が捜査上不明なため被告人に管理者としての責任が追及されたものと見られるが然し罪刑法定主義にもとづく犯罪の構成要件に関する検討を加えるに於ては前説示の通り社会上道義上の責任ありや否やは別として失火に対する法律上の過失責任は存在しないものと解する。
仍つて本件は被告人に業務上失火罪及び業務上過失致死傷の責任を科すべき案件ではないと解するから、その理由に於て異にする部分があるとは云え之と結論を同じくする原裁判所の判断は相当であるから原判決の他の理由説明を攻撃する論旨に関する判断を為すまでもなく本件控訴は理由がない。